2011/4/16 土曜日

Filed under: カービング — mtd @ 4:06:19

この度の東日本大震災において、お亡くなりになられた方々のご冥福を

お祈り致します。

また、被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

km2971.jpg

(ジャガイモとビーツを組み合わせた立体的なハートです。)

私は、神戸に在住しており、16年前の阪神淡路大震災を経験しました。

ありがたいことに、自宅の被害は比較的少ない方でした。

受けた被害の大きさや、そのときの生活状況は、個人個人異なり、

震災に対しての思いは、個人個人で異なると思います。

受けた被害が、比較的少ない私でも、いまだに阪神淡路大震災のことを

思い出すと、とても嫌な気分になります。

この度の東日本大震災は、阪神淡路より広域で甚大だったことを思うと、

被害にあわれた皆様の心中はいかばかりか、想像すら及びません。

震災のことは、思い出したくないので、普段話題にすることはあまりありません。

私が経験したことよりも、もっと大変な状況だった方がたくさんいらっしゃると

思いますが、今ライフラインが正常に享受できている状況に感謝し、

少し書きたいと思いました。

棚から食器やテレビなど(その当時のテレビですから、薄型ではないものです)

物はたくさん落ちました。

うちの部屋は土壁で、壁の上側の角の土が落ち、浴室のタイルにヒビが入り

ました。

改装して、家の中はきれいになったところでしたが、古臭い印象になりました。

水が出なくて、給水に並びました。そのとき、こんなに近所にたくさんの人が

住んでいるのかと驚きました。日中は、学校や仕事に出かけているでしょうから、

生まれ育った地域といえども、普段見かける人は、ほんの一部だったことに

気づかされました。

震災で交通機関が止まってしまったので、住民のほぼ全員が家にいたのでしょう。

給水で、少なくとも一世帯から一人、人数の多い家族なら、並べぶことのできる人、

子供全員やお父さんが並ぶので、長蛇の列ができ、驚きました。

ガスは1カ月来ませんでした。お風呂が入れず困りました。

震災の約3〜4日後、隣町の大型量販店が営業していると聞き、買い出しに

出かけました。普段は電車で行きますが、止まっていたので、2駅分歩いて行き

ました。

店舗には、リュックサックを背負った人であふれ、戦争を経験した世代ではない

けれど、闇市かと思いました。

店舗の中は、体臭の不潔な臭いがし、思わず自分の臭いではないかと、自分の

左右の腕を匂って確認したくらいです。

ガスが通っていなかったので、皆お風呂に入れていませんでした。

私は、その当時、大阪の会社で服の製図を引く仕事をしていました。

会社は、被害がなかったのですが、神戸大阪間の電車の路線が一部損壊して

いたため、通うことができませんでした。

会社の方がマンションを1か月貸してくださることになり、震災の約1週間後、

会社から神戸方面の人を車で拾って回ると電話がありました。

当時は携帯電話はありませんでした。電話は、2〜3日で通じました。

迎えが来たとき、髪も洗えていなかったので、恥ずかしく、コートで身を隠す

ようにして車に乗りました。

普段は、かなり個性的でファッションに気を使った格好で出勤していたので、

(若かったので、気合いが入っていました!)汚い格好で出ていかなければ

ならないのが、耐えがたく、自分自身を見られたくなかったので、隠れるように

小さくなって車に乗って大阪まで行きました。

大阪のお宅では、着いてすぐに食べられるようにと、パンを置いてくださって

いました。

大阪に出る前の約1週間、調理することができず、温かい食べ物を食べる

ことができていなかったので、大変贅沢で失礼なことなのですが、

「また冷たいパンか・・・」と思いました。神戸では、夜はろうそくに火を点けて

過ごしていました。

次の日から会社に通い始めたのですが、会社の食堂で昼食の時間になり、

温かい白いご飯を食べている自分が嫌でした。

両親を神戸において、一人だけ大阪に出て、何不自由のない生活をしている

自分が、とても後ろめたかったです。

私も一緒にいて、何か手伝えたのではないか、両親が不自由な暮らしをして

いるのに、自分は遠くで何もできない。これは、ずっと私の心の傷となっています。

大阪の路上では、募金活動に立ってくださっている方々を見る度、逃げ出して

来たような自分が嫌で、目をそらして足早に立ち去りました。

1か月が過ぎて、一部の路線で電車が運行したので、家に戻ることにしました。

神戸から大阪の東西の間には、3つの会社の電車が平行して走っています。

それぞれの南北の間隔は離れています。全ての路線が、バラバラの地域で

損壊した為、それぞれを乗り継いで大阪に行くしかありませんでした。

私が震災後、大阪に行くには、JR、私鉄、JRと乗り継がなくてはなりません

でした。

JRも私鉄も、たまたまですが、一部ずつが無事だったため、JRに途中まで乗り、

北に歩いて私鉄に乗り、私鉄も途中で損壊しいているため、JRに乗りなおす

ために、南に歩いてJRに乗りに行きました。歩く距離は、それぞれ約30分でした。

約1ヵ月間、その状態で通勤しました。

今まで3路線に分かれて通勤していた人数が、1つのルートしか使えないため、

毎日ものすごい込み様でした。

通勤に片道約3時間かかり、通勤時間帯には込むため、始発に乗らなければ

遅刻しました。5時代の電車に乗り、9時始業でしたが、8時ごろに会社に着く。

神戸在住者だけが、その当時8時ごろに会社に来て、始業時間まで自分の

机のところで仮眠していました。皆が来る前なので、部屋の電気はほんの一部

しかつけず、暗いまま広い部屋の中、点々と離れて机にうつ伏せていました。

帰りのJRから私鉄に歩いて行く道は、普段は閑静な住宅街で、店などはありま

せん。しかし、通勤客を狙って、食べ物屋台が並びました。

通勤客は、スーツなど、仕事着を着ていますが、ほとんどの人の足元はスニーカー

(乗り継ぎ2か所で30分ずつ歩くので)、背中にリュック姿。

夜の屋台のオレンジ色の明かりと、冬の寒さの人の白い息、密集して足早に歩く

姿は異様で、ここも闇市のようだと思いました。

車道の脇の狭い歩道や、普段は住人しか通らないような一軒家が並ぶ間の道を、

大勢の大人が家路を急いで歩いて行く。その地域にお住まいだった方々は、

静かだった家の前の道に、急に人が大勢歩き出したので、気が休まらなかった

のではないかと想像します。

JRは地上の高いところを走る路線があり、見下ろす風景は、火事で焼け野原

になった広大な土地でした。

以前はビルが建っていたので、遠くまで見通すことはできませんでしたが、

その当時は、平地で遠くまでガレキが続いていました。

空襲で街ごと焼かれた後のようだと思いました。

窓からその風景を見ながら、「当然のことなのかもしれないけれど、公共のものの

復興が優先、個人の住宅の復興は後なんだな。」と思いました。

電車は一部でも運行し始めているけれど、損壊した個人のお宅は、損壊の程度を

認定する行政の人が来る順番を待っている人が、まだ沢山いました。

私が、電車で通勤を再会したのは、約1カ月後でしたが、そんな状態でした。

この度の震災の方が、阪神淡路のときよりも、甚大な被害を受けていらっしゃい

ます。

復興には、より時間がかかるかもしれませんが、阪神淡路や、その後の震災の

経験を生かして、一日でも早い復興を願っています。

私は、約10年、毎年年末に、複数のところに募金をしていますが、今回も

微力ながら、募金をしました。

母が、「復興には時間がかかるはずなので、長期の間で何回か募金しないと、

一回だけでは、あかん。神戸の時も、してもらったんやから。」と言ったので、

毎月募金をしたいと思っています。

私が仕事にしているカービングは、平和でなければできないものだと常々思って

います。カービングができることに感謝し、また食材を無駄にしないように

大切に頂きます。

タイでは、私の好きな人気歌手のバード・トンチャイさんが、日本を元気づける

為の歌を、1番をタイ語で、2番を日本語の歌詞で歌ってくださっています。

震災後、早い時期にプロモーションビデオまで作って配信された行動力は

驚きです。http://www.youtube.com/watch?v=zgy8bFVWM2E 

私は、タイ語を習いに行って、そこでタイの文化としてのカービングを知りました。

震災までは、英会話を習っていましたが、震災によって外国人の方が、大勢帰国

されました。震災で交通機関が停止して自宅で待機している間に(それくらい

すぐに)外国人の方がいなくなっていました。

私の英会話の先生は、2,3人いましたが、震災後すぐに帰国されたようです。

もし、震災がなければ、英会話の学習を続け、タイ語を習わなかったかもしれません。

震災は、辛い思い出ですが、私の人生の大きな転機になったようです。

自分にできることは、微力ですが、応援します。

 

 

 

 

 

 

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